4月3日、肺ガンで自宅療養していた父が逝った。83歳3か月だった。
昨年8月に右肺に8cmの腫瘍が見つかり、9月末に金沢医科大学病院で精密検査を受け、余命1年と言われた。父はその結果をわたし達兄弟とともに聞いた。
年明けに入院し、医師、看護師さんたちの手厚い看護を受けながらも三日程で「自宅に帰る!」と暴れ、自宅療養となった。
羽咋市内の診療所、介護センターの支援を受けながら、母、弟夫婦、姉、わたしが交代で父に付き添っていた。
日を追うごとに目に見えて病状が悪化していく。衰弱が早送りされているみたいだ。
4月2日土曜日、弟から「痛み止めにモルヒネを使い出した。安眠できるようになったが薬が切れると大きな声で痛みを訴える。もうしばらくは大丈夫かもしれない。」5日に帰る予定を立てる。
夜、「明日、帰ってきた方が良い」と連絡が入る。
3日0:40に「亡くなった」と連絡が入る。
朝、実家に向かう
電車の中で、古びた中原中也の詩集を開く。時折、窓外の桜に目をやる。桜の花を見せたかった。
千路駅で下車し、実家まで歩くことにする。
途中、廃校になった小学校の桜坂を歩く。
荒れた桜坂に人はいない。
更地の校舎跡地に屹立する残った一本のヒマラヤ杉に緑の葉はわずかだ。
残った緑の葉は、残った卒業生の数か。
畑になった家の跡地にも足を運ぶ。
庭の柘榴(ざくろ)の木は
樹齢200年くらいだろうか?
わたし達兄弟、父母、祖父母、曾祖父母の生を見ていた。
父の死に何か言ってもらいたいと思った。
実家に入り、冷たくなった父と会う。
5年前、祖母の死の時には長く号泣していた。
父の顔を撫でながら「ありがとう」と言った。それ以上は言わなかった。
言えなかった。
わたしの父が頭の中で乱舞している。
口を開くとわたしの中の父がわたしから離れ
薄らいでしまう気がした。
弟から
深夜にもかかわらず、
診療所の看護師さんが来てくれた。
父の体を拭いて着替えさせてくれ、髪も顔も綺麗にしてくれた。
大学病院の担当医師もタクシーで金沢から駆けつけてくれた。
と聞く。心から感謝します。
疲れている母、弟夫婦を休ませ、一人夜伽する。
付き添っていた時と同じように何度も父の顔を覗き込んでいる。
トイレに行きたいと言う父を抱き起こすこともないのに。
5日、口を結び葬儀に入る。
薬の投与が少なかったせいだろうか?
遺骨はしっかりしていた。
もう父はいない。
まだ気が張っている母に「体を休めて」と言い、
弟に感謝の気持ちを伝えて実家を後にした。
住まいに戻ると小さな蕾だった庭の桜は葉桜になっていた。
今日の雨風は、花散らしになるのだろう。
あゝ おまへはなにをして来たのだと‥‥
吹き来る風が私に云ふ
(中原中也 山羊の歌「帰郷」より)
ご尊父の逝去、お悔やみ申し上げます。
また、生前の介護も、相互の距離を考えますと、さぞ大変だったことでしょうね。
桜花舞う時季に逝かれたというのも、何やら意味ありげにも思われます。
これからの花見は父親の記憶とともに訪れるというわけです。
人の人生も、結局はDNAを継ぎ、再生させていくというところに大きな意味がありますので、
お父さんとしては、それを無事にやり終えたということでもあります。
はやしさんのこれからの人生も父親のDNAを引き継ぎ、これを弘志さんなりに更新させ、バージョンアップさせていくことになりますね。
桜の老樹の影から、きっと見守ってくれていることでしょう。
体調崩さないよう注意なさってください。
エール、ありがとうございます。
こちらに戻ってくると、何も変わっていない殺風景な日常に身が投じられます。
浮遊している心とのギャップはまだ大きいのですが、時間と忘却が新たな日常へと導いてくれるのでしょう。
父の遺品等を整理する母と弟は、ひとつひとつ片付けることでそんなギャップを超えて行くのだろう、心の整理が出来ていくのだろうと思います。
実家に残ったまま遺品整理を共にしようかと思ったのですが、長く父の側にいた二人に対して、18歳から離れて身勝手に暮らしているわたしが差し出がましいことを言ってしまうのではないか、それが二人の負担になってしまいはしないか、と思い二人に任せて戻って来ました。
周囲の山々にはまだあちらこちらに山桜が匂ひ立っています。
わたしは、ここだ!と。
桜、散るか!
散るまい!