2011年4月2日早朝、実家の弟から祖母の訃報を知らせる電話が入る。99歳7ヵ月だった。
前日の夜、NHKで植村花菜さんの「トイレの神様」を耳にし、祖母の思い出を手繰り寄せていたのは偶然だったのだろうか?
昼過ぎに実家に着き、静かに眠る祖母の冷たくなった顔を撫でながら号泣する。東日本大震災で涙腺が弛んでいるのだろう。涙が止まらない。
夜11時過ぎ、金沢駅へ遅れて来る娘を迎えに行く。金沢駅から羽咋に帰る車中、フロントガラス越しに大きな光が彗星のような速さで飛んで行った。爆撃弾を彷佛させる大きさだ。運転してくれている姪の旦那と「今のは何なんだ!!??」 魂というものがあるのなら、それは祖母の魂だったのだろうか?
葬儀に参列してくださった方々に父は「東日本大震災でたくさんの人が亡くなり、その方達はまともに葬儀も行われないでいる。母の葬儀をまともに執り行うことが出来ることに心苦しさを覚える」 祖母に合わせる手に、重ねて震災で亡くなられた方達のご冥福をあらためてお祈りする。
高度成長期、父母は寝る間を惜しみ実家の織物工場で仕事に明け暮れていた。姉、弟の3人兄弟を見守り育ててくれたのは祖父母だった。工場を閉めた後、母は家で祖母の下の世話から全て面倒を看ていた。
葬儀の後、母に祖母の面倒見に感謝とねぎらいの言葉を掛けた。母は「お前達3人を育ててくれたお礼やわいね」 母に初めて涙が流れた。
この父と母の子で良かった。