十三夜の10月29日夜10時半頃、入浴中に携帯の呼び出し音が鳴る。
この時間帯に電話‥‥イヤな電話でなければ良いのだが‥‥イヤなことが脳裏をよぎるが振り払う そんなことなどない!
電話は弟から‥‥メッセージは無い。
折り返し電話すると、
「ばあちゃん、死んだ。今、病院‥‥」
はあ??何で??
「風呂、長いなあと思って見に行ったら‥‥」
浴槽から母を抱え出し心臓マッサージしながら連れ合いに救急へ電話を掛けさせ、電話口で蘇生の指示を受けながら救急隊到着を待ち、救急隊と交代、病院での蘇生‥‥弟は<119>という番号さえ出てこなかったという‥‥
翌日昼過ぎに実家に着き横たわる冷たくなった母と対面する。
何で?何で?おかあん、何で?
病気らしい病気も無く、いつものように夕飯時を弟たちと過ごして風呂に入った。
弟から話を聞きながら、何で?何で?おかあん、何で? わたしの頭の中も動転した弟のように思考が止まったのか、メビウスの帯をなぞっている‥‥冷たい母の頬を撫でながらも現実を直視できないでいる。
夕方、実家の前から3kmほど離れた母の生家の方を見る。夕日が母を招いているようだ。
2016年に亡くなった父より二つ上の85歳。通夜は11月1日、葬儀が2日。わたしは母が使っていたベッドに潜り込む。母の匂いが思い出せない。
今年の正月、わたしは昔のアルバムを持ち出してきて母に「これ、いくつの時?この人誰?」などとたずねていた。6月には「何でも一人でやらんと‥‥。無理しんといてよ」と実家を後にした。
通夜当日、5月に亡くなった母の兄以外の少し歳が離れた弟、妹、弟のきょうだいは早くから来てくれ、母より7つ違いの直ぐ下の叔父は、報を聞いてからずっと幼かった頃からの思い出が次々と浮かび涙が止まらない、と目頭を押さえ鼻をかみながら母を見ていた。
通夜の後、母のきょうだい達とアルバムを広げ、母の結婚式のことなどを話してもらった。戦後10年余り、21歳で結婚、婚礼衣装を来て婚礼家具とともに3km離れた生まれ育った家から歩いて来たという。結婚式から三日間、親戚や近所の人達はウチで飲み続けていたという。酔い潰れ玄関先で横になりまた起きて飲む、だったそうだ。母と父の双方の父親同士は家が離れているのに竹馬の友だった。どういう経緯で結婚することになったのか、今となっては話してくれる人はいない。
わたしが幼い頃、盆と正月に母はわたしの手を取り実家へ歩いて帰った。途中「ここは狐が出るところ、人を化かす」などと話しながら、嫁いだ時の道を歩いていた。
風邪をひいて、町の医者に連れて行ってくれたとき「注射打たれても泣かんもん」と母の手を強く握った。
小学4年の時だったか、母の日に寄せて書いた「母への手紙」で特賞をもらった。書いた内容をわたしは忘れているが、母はその時のことを覚えていた。きっと内容も。
木工屋になって実家に帰る度に「何食べとるいね」と尋ねる母。
亡くなる一週間前、婦人会でお寺の掃除をしていたという。わたしが作った本堂の巻障子をどんな気持ちで見ていたのだろう。
愚痴一つこぼすことなくカラダを動かし仕事をし続け、祖母を「お前たち3人を育ててくれたお礼やわいね」と世話をし続けた。
おもてに立つことはなかった。ひとの課題さえ消化していなければ自身の課題のように愚痴も漏らさずこなしていた。
母は苦労や痛みを外に出すことなく一人でどれほど抱え込んでいたのだろう。夕日はそれを焼いて消してくれただろうか。
姉に「わたしが死んだら、新聞のおくやみ欄には『花が好きだった』としといてね」と伝えていた。 いつ? なぜ?
母が作った最後になる梅干しを頬張り、わたしはまだメビウスの帯をなぞり続けている。
人の死はいつも突然。
また人の生き死には、DNAを次世代に継ぐことで完遂されるもの。
そうであれば、見事な人生として見做すことができるようになるでしょう。
お悔やみ申しあげます。合掌
ありがとうございます。
コロナ禍ですが、葬儀、四十九日の法要とも祖母、父同様に執り行うことが出来ました。
心の整理は日常の中で静かに成されていくと思います。
年末年始は大寒波襲来の予報。太平洋側でも降雪が予想されています。慣れない雪には十分ご注意ください。