曲げ加工の失敗談

材の反り修正でアイロンは何度も使ってきました。今回、椅子の背板で蒸しての曲げ加工を試してみました。

今まで背板の曲面は型板を頼りにバンドソーで粗木取りし、反り台鉋で削り出していました。が、厚みの均一性と作業効率が今一歩。
というわけで、均一の厚みで枘(男木)加工を済ませて曲げ加工をしてみようと。
材を濡らし水を含ませた当て布の上をスチームアイロン、というやり方は反り修正と変わらず面白味がない、新しく蒸して曲げようと思ったわけです。

削り出しの背板

D.チェア(山桜)2

曲げ加工の背板

曲げ加工の背板

 

蒸して曲げる

蒸して曲げる方法は一般的な曲木の方法ですが、有効な設備は持ち合わせていません。そこで思い立ったのが薪ストーブのヤカン。ヤカンに煙突を立ててその中に材をぶら下げて蒸そう! 続きを読む 曲げ加工の失敗談

木工作業の工夫10(角鑿盤での斜め枘穴)

椅子の座板と後ろ脚との組みなどでは傾斜角をつけることがあります。
角鑿盤のテーブルは一般的に角度調整が可能ですが、テーブルと角鑿のカネが出ているものを崩したくない、再設定が面倒臭い。
角鑿盤の材当て面に罫線をガイドラインとした板をセットすることで容易に正確な角度で枘穴加工が出来ます。
今回は座板と後ろ脚は10°傾斜です。

座板と後ろ脚の組み

 

傾斜ガイド板の制作

CADで罫線を5mm間隔(適当)で引きます。ページ一杯になったら、copy&pasteし10°傾斜とマイナス10°傾斜を作り2図を重ねます。罫線は細いほど精度が出ます。

プリントした用紙を合板に貼ります。
合板は横200mm程度、縦100mm程度とします。縦はあまり高いと角鑿の保持部に当たるのでこの程度の高さが適当でしょう。また、用紙を貼る接着剤はゴム系のスプレータイプ※1を使います。水溶性のものだと紙が伸縮で歪みます。
※1 わたしが今回使っているのは、3Mのスプレーのり77。ちなみに99はボテボテ、55は剥がせるタイプ、価格が高いのが難点‥‥。なお、噴射口(予備ボタン)はスリーエム ジャパンから取り寄せることが出来ます。
貼り合わせる際は底辺を基準にすると良いでしょう。左右と上部は貼り終えてからカットします。

 

角鑿盤にセット

傾斜ガイド板に材を当て位置決めし、必要に応じて材の片方に当て木を置きます。材を締めて固定し通常の枘穴加工を行います。
10°傾斜とマイナス10°傾斜の罫線を引いているのは、左右の脚の基準面を角鑿盤の材当て面に当てるため逆になるからです。(添付している写真は、撮影のため基準面を手前にしています。)

 

座板の加工

座板の加工は、設定角度のガイド材に手鑿で仕上げます。

手鑿の傾斜ガイド

たまには自分用に

コーヒーのペーパーフィルタ・ケースを作った。たまには自分用も良いだろう。もちろん端材で本体は楢、蓋は黒柿。ミニ蝶番は市販の真鍮製。仕上げはオイルフィニッシュ。
あんまり手を加えると自分で使わず売り物にしちゃおう、などと思ってしまうので手を加えるのはほどほどにした。
当初は単純な板組みで、と思っていたが天秤指しにすることにした。天秤の二等辺三角形の大きさは高さ10mm、上≒1mm、下≒6mm、傾斜角75°で手持ちの手鋸と鑿の最小サイズ。毛引き線はシラガキで表裏しっかり引いてみた。売り物の時は0,3mmのシャープペンシルで引き、加工後毛引き線を消すのだけれど、シラガキで引いた時の鑿の当たり具合や完成後に毛引き線が残った雰囲気も感じたかった。
表裏から掘る鑿の刃先の当たり具合や精度は、当て木を使うにしろシャープペンシルより格段に良い(当然ですが)。毛引き線が残った雰囲気は、なんとなく職人らしい(わたしも職人の端っこにいるのですが‥‥)作り。それもまた楽し。

 

おまけ

今シーズン、今日2月9日の寒波は4回目。年末の1回目の重たいドカ雪で庭木がバキバキ折れた。3回目の後、折れた庭木を整理して太いものは薪にした。枝葉は春になったら始末する。
covid-19(新型コロナ)も第4波は来るだろう。イヤだが‥‥

1回目の寒波

1回目の寒波

 

4回目の寒波(手前は1回目の寒波で折れた枝葉)

 

三方留めの練習

昨年知人宅を伺った際、中古で入手されたというキャビネット(ショーケース)に目が奪われました。
フレームは三方留め、剣留め、棚板は天秤指し、建具は通し枘留め、抽斗は包み蟻、鏡板は浮き彫り、等々。毛引き線が残っているそのキャビネットから凛とした職人が浮かび上がります。全体、局部と何枚も写真に収めました。今後の参考にしたいと思っている次第。添付する写真は三方留めの部分のみ。

そこでまだやっていなかった三方留めを練習しようと思っていた矢先、工房 悠さんがBlog工房通信 悠悠「車知栓(しゃちせん)による三方留」座卓での三方留めについて書かれました。非常に嬉しいタイミングです。
Blogでは、松本民芸家具での座卓制作技法を踏襲され、制作・加工は「ホゾ取り盤」「高速面取り盤」などを用いています。<ウチには無い!>ので、角鑿盤、横切り盤、傾斜盤というごく一般的な工作機械で制作することになります。今回はほとんどが機械加工です。
制作するのはスツールで、サイズはH:350mm、W:350、D:300と小振りです。フレームは30mm × 40角、脚は40 × 40角です。材は手元に残してあった撥ねたトネリコと端材のクリ板を使います。
制作にあたっては「木工の継手と仕口 増補版」(理工学社刊)を参考にしながら自分なりの工夫を加えます。フレームの留めは相欠き、フレームと脚部とは流れ留め欠きと枘を合わせます。流れ留めは厚みと幅の違いに生じる留め形のことで、人によってはアホ留め、バカ留めとも言うようです。

工房 悠さんは大物の座卓の制作であるため天板フレームの留めの締結には車知(しゃち)栓を使っています。確実に締結させる高度な技術であることは勿論ですが、周囲を平ベルトで締めるよりも確実に締結できます。大物座卓にはベルトは不向きでしょう。また、流れ留めの形欠き裏には相欠きの平枘があります。わたしの練習ではこの相欠きはやめました。理由としては、脚とフレーム外側の固定は確実になるものの内側が面接合となることで脚がが開くという外への力に不安があること、流れ留めの形欠きと枘で強度が保てるだろうこと、構造と加工が複雑になることです。このため今回はフレームの相欠き平枘2枚を貫通させる枘を使い固定することにしました。

以下、制作工程を書いていきます。写真を多用しています。その方が分かり良いかと思います。

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十三夜、母逝く

十三夜の10月29日夜10時半頃、入浴中に携帯の呼び出し音が鳴る。
この時間帯に電話‥‥イヤな電話でなければ良いのだが‥‥イヤなことが脳裏をよぎるが振り払う そんなことなどない!
電話は弟から‥‥メッセージは無い。
折り返し電話すると、

「ばあちゃん、死んだ。今、病院‥‥」

はあ??何で??
「風呂、長いなあと思って見に行ったら‥‥」
浴槽から母を抱え出し心臓マッサージしながら連れ合いに救急へ電話を掛けさせ、電話口で蘇生の指示を受けながら救急隊到着を待ち、救急隊と交代、病院での蘇生‥‥弟は<119>という番号さえ出てこなかったという‥‥

翌日昼過ぎに実家に着き横たわる冷たくなった母と対面する。
何で?何で?おかあん、何で?
病気らしい病気も無く、いつものように夕飯時を弟たちと過ごして風呂に入った。
弟から話を聞きながら、何で?何で?おかあん、何で? わたしの頭の中も動転した弟のように思考が止まったのか、メビウスの帯をなぞっている‥‥冷たい母の頬を撫でながらも現実を直視できないでいる。
夕方、実家の前から3kmほど離れた母の生家の方を見る。夕日が母を招いているようだ。

10月30日夕焼け

2016年に亡くなった父より二つ上の85歳。通夜は11月1日、葬儀が2日。わたしは母が使っていたベッドに潜り込む。母の匂いが思い出せない。

今年の正月、わたしは昔のアルバムを持ち出してきて母に「これ、いくつの時?この人誰?」などとたずねていた。6月には「何でも一人でやらんと‥‥。無理しんといてよ」と実家を後にした。

通夜当日、5月に亡くなった母の兄以外の少し歳が離れた弟、妹、弟のきょうだいは早くから来てくれ、母より7つ違いの直ぐ下の叔父は、報を聞いてからずっと幼かった頃からの思い出が次々と浮かび涙が止まらない、と目頭を押さえ鼻をかみながら母を見ていた。

通夜の後、母のきょうだい達とアルバムを広げ、母の結婚式のことなどを話してもらった。戦後10年余り、21歳で結婚、婚礼衣装を来て婚礼家具とともに3km離れた生まれ育った家から歩いて来たという。結婚式から三日間、親戚や近所の人達はウチで飲み続けていたという。酔い潰れ玄関先で横になりまた起きて飲む、だったそうだ。母と父の双方の父親同士は家が離れているのに竹馬の友だった。どういう経緯で結婚することになったのか、今となっては話してくれる人はいない。

わたしが幼い頃、盆と正月に母はわたしの手を取り実家へ歩いて帰った。途中「ここは狐が出るところ、人を化かす」などと話しながら、嫁いだ時の道を歩いていた。

風邪をひいて、町の医者に連れて行ってくれたとき「注射打たれても泣かんもん」と母の手を強く握った。

小学4年の時だったか、母の日に寄せて書いた「母への手紙」で特賞をもらった。書いた内容をわたしは忘れているが、母はその時のことを覚えていた。きっと内容も。

木工屋になって実家に帰る度に「何食べとるいね」と尋ねる母。

亡くなる一週間前、婦人会でお寺の掃除をしていたという。わたしが作った本堂の巻障子をどんな気持ちで見ていたのだろう。

愚痴一つこぼすことなくカラダを動かし仕事をし続け、祖母を「お前たち3人を育ててくれたお礼やわいね」と世話をし続けた。

おもてに立つことはなかった。ひとの課題さえ消化していなければ自身の課題のように愚痴も漏らさずこなしていた。

母は苦労や痛みを外に出すことなく一人でどれほど抱え込んでいたのだろう。夕日はそれを焼いて消してくれただろうか。

姉に「わたしが死んだら、新聞のおくやみ欄には『花が好きだった』としといてね」と伝えていた。 いつ? なぜ?

母が作った最後になる梅干しを頬張り、わたしはまだメビウスの帯をなぞり続けている。