桜:奥琵琶湖にて

4月8日、左手開放骨折治療の固定プレート抜去手術のため二泊三日の短期入院をしました。若い人なら6ヶ月程度で行うそうですがわたしは8ヶ月後となりました。外されたチタンプレートは「自戒」のためにキーホルダーに付けようと思います。脱臼骨折の頚椎のボルトは躰のパーツとなりました。
脱臼した両肩を結ぶ横ラインと頚椎の縦ラインは固く十字架を背負っているようです。これからは「十字架を背負った木工屋」です。

手術した左手と外したプレート

奥琵琶湖と桜

4月9日早朝、日が差しています。退院した昨日、奥琵琶湖パークウエイに桜を見に行ったのですが生憎の雨模様で今日出かけることにしました。
以下、奥琵琶湖と桜の写真、写真、写真です。世田谷のPさんが年内にこちらへ来られるとのことで、こちらのページでわずかながら紹介させていただきます。

衝立越しに見る庭の桜

家の中から衝立越しに見る庭の桜です。おまけ。

衝立越しに見る庭の桜

桜と森田童子

夙川公園で桜

昨日3月28日、兵庫県西宮市へ納品したものの修繕に行って来ました。
お客様の家の前は夙川公園(しゅくがわこうえん)です。桜の名所と伺っていたので、昼休みに少しばかり散歩してきました。
陽光が降り注ぐ下で散歩しながら桜を見るのは、勤め人時代、東京に出張中の合間に足を運んだ上野公園以来になるでしょうか。かれこれ20年以上も経つんだなぁ‥‥。

夙川公園
夙川公園の桜の開花は5〜6分咲きくらい。花見に来ている人はまだそれほど多くはありませんでした。ベンチや座れる大きさの石もたくさんあり、例えコンビニ弁当であってもここで食べれば良かった!と幾分後悔しました。
一般的に桜の花見の名所とやらは植樹によるものがほとんどであることから花見というものに余り気乗りしないのですが、この日はひねくれずに美しいものを美しいと言える素直な自分も大切にしたいと思いました。さりげない5〜6分咲きの下をポツポツと歩きました。雑音いっぱいの満開の夜桜見物とは違って肌で感じる花見となり、結構満足しました。

小学校の桜

わたしが通っていた小学校は羽咋市の越路野小学校。すでに廃校になって数年が経ちます。小高い山の中腹にあり急な坂道を上がって行きます。その坂道には桜が植えられていてこの季節になると満開の桜の坂が思い出されます。わたしが通っていた頃、隣の小学校が遠足に来ていたことを思うと随分美しい桜坂だったのです。
廃校になった翌年、「あの桜はどうなっているのだろうか?」と思い、実家に帰った際に足を運んでみました。
人の手によって植樹、手入れされていたからこその美しさだったのでしょうか。懐かしいその桜坂は下草が生え放題、枯れ放題。桜の木も朽ち果てているもの、折れて枯れ始めているもの‥‥。何だか自責の念にかられます。
校舎は既に取り壊されて廃材も撤去されていました。中庭と教室南側の花壇も痕跡を僅かに残すのみ。大きく真っ直ぐ伸びた二本のアラスカ杉の一本は校舎がなくなってから運動場に向かって倒れています。今は無き校舎が北風を防いでいたのでしょう。倒れたアラスカ杉を見ていると、動けずに幾世代もの子供達からおいてきぼりをくって泣いたように感じました。

桜坂、
せめて地元の人たちが憩える場所として守ってくれれば、と思うのは、町を出たものの勝手な言い分ですね。

森田童子と桜

高校時代、友人と入り浸っていたのは「レコード屋」さんです。当時のレコード屋さんはギターなどの楽器も扱っていて随分お世話になりました。奥には試聴できるスペースがあり、なかなか買うことも出来ないのに毎日のようにLPジャケットをまるで店員のようにコンコンと見定め、気に入ったジャケットを見付けるとそこで聴かせてもらっていました。レコードを聴くことが目的ではあったのですが、そこで働いているケイちゃん(当時21歳)に会って何気ない話をすることが楽しみで、年上の彼女への叶わぬ恋心のようなものが自転車のペダルを踏ませてもいました。レコードをかけてくれるのはいつもケイちゃんで、わたしの前で事務仕事をしていたっけ‥‥。

そんなある日、森田童子の『GOOD BYE グッドバイ』のジャケットに魅入られて試聴しました。今のように汚れていなかったわたしに染み込んで来ます。もともと単一志向性の性格からでしょう。聴いている時はその詞、曲だけがわたしにありました。レコードを買ってからは毎日毎日針を落として聴き入り、ギターコピーもして学校祭で歌ってみたり、今はなき新宿「ルイード」のコンサートに出掛けたり‥‥。

森田童子LPレコード

わたしの中で学生運動のイメージが作られたのは森田童子からでしょう。大学生になり学生運動に足を踏み入れるのですが、活動そのものが不甲斐なくなってしまっていることにわたしの不甲斐なさも加わり、お情け程度の活動でした。
わたしができたことはシュプレヒコールと「ピラビタール」くらいです。

二枚目のアルバム『Mother Sky』に「春爛漫」という曲が収められています。


桜の花びら 踏んで歩いた
君と肩組んで 熱くこみあげた
春よ 春に 春は 春の
春は遠く
‥‥

大学への通学路沿いに桜が植えられた中学校の校庭がありました。歩道に掛かる枝から舞い散る花びらの下を歩くのが好きでした。
「桜」という言葉から始まる曲だからなのでしょう。桜の季節には毎年頭の中で聴こえています。
久し振りに、カセットテープから聴いてみよう。

ほぞ(枘)のこと<追記2>

「底糊」について

「底糊」について、接着剤メーカーの株式会社オーシカさん、木工の先輩にお話を伺ったり、また自身も接着剤に関する資料に再度目を通しました。
「底糊」の効果について、具体的な立証結果というものを見つけることは出来ませんでした。それは使用材、枘の構造(長さ、幅、厚、胴付き面)、接合度、家具の使用条件等、多くの条件からその強度を立証することが難しいからだと想像します。

幾つかの点で頷けることがありました。
  • ごく浅い枘穴しか掘ることが出来ない場合に、枘先と底を密着する精度の高い加工を行い接着強度確保を狙う。
  • ダボ、ビスケットの表面は圧縮溝が付けられていて、接着剤の水分による膨張による接着面の加圧効果の期待と、穴底の接着剤が圧縮溝から押し出され接着剤が行き渡り接着効果が向上する。
  • ミニフィンガージョイントでは、接合部内隅の隙間を埋める加工処理が曲げ強さと美観のためにも推奨される。

<底糊:接着剤で満たすのが良い>という言い回しはあまり的確ではなかったようです。
通常の枘での過分な接着剤は胴付き面の接着を疎外することもありますし、枘穴の空隙を満たす適量の塗布も現実的には難しいです。接合部分には接着剤の未塗布部分を作らない、過分に塗布しない、空隙は小さい方が良い。ということになると思います。

今回、読者の方からのご質問で、改めて接着剤を勉強する機会を得ることが出来ました。充分な回答になっているとは思っていません。「底糊」についてはアタマに焼き付いています。引き続きヒアリングも行い、文献などにも目を通そうと思っています。新たな発見がありましたらまた記述したいと思っていますし、「底糊」についてご存知の方からのコメントもいただければ幸いです。

3月11日

東日本大震災から4年の時が過ぎました。

亡くなられた方たちに今一度心から手を合わせます。

亡くなられた方、行方不明の方を合わせると、わたしの故郷である石川県羽咋市の2万4,000〜2万5,000全市民(市町村合併前)がいなくなることになります。ましてや瓦礫に覆い尽くされること、想像することさえ怖くなります。

ビッグデータに思うこと

先日、NHKのテレビ放映でビッグデータによる震災の解析がなされていました。素晴らしいデータだと思いました。1,000ものデータからの解析とのことでした。

福島原発被害の細やかなデータは無いのでしょうか?原発被害の詳細なデータを明らかにすべきだったと思います。原発が無かった時と、建設、稼働、被害、経済的なことの比較のデータもあったのではないでしょうか?それとも意図的に出さない?

1,000ものデータが手元にあっても、どの項目を選択し解析するかは番組制作者の意によるものと思います。また、原発を推進するか、しないかの視点によって解析されるデータは大きく変わるものと思います。どんなに素晴らしいデータがあっても、生かすも殺すも意思次第となるようで怖いです。きっとそれらのビッグデータは高額な商品となっているのでしょう。出来れば多くのビッグデータを見たいものです。

個々への思い

阪神淡路大震災、東日本大震災‥‥想像できない被害は言葉に出来ない大きな衝撃でした。今、視線は被害の大きさから被害に遭われた個々の人へとなり、その方達の強さに自らを恥じ叱咤しています。
人は厄介なもので、身に降りかからないとその痛みは分からない。わたしも痛感しています。

もう一度、自分に対しても言い聞かせます。

 

生きる

生きるということ
生きて来たということ
生きているということ

生きていたということ
生きて行くということ
生き合うということ

生きるということ

生ききるということ

つまみ

削り出しで作った本紫檀のつまみ。
やはり、わたしはこのラインになるようです。